イエズス

「イエズス。」大学受験の時、私の心に小さい頃日曜学校に行っていた時の思い出が突如よみがえってきました。「キリスト教の学校に行こう。」そして某カトリック大学に入りました。「イエズスは神様だ!」これが一年間大学で要理を勉強した私の心に残ったことでした。非行少年のためのボランティア活動で、少年たちに対する私たち人間の心配や願いをはるかにこえて、すべての人を支え愛する神に触れた時、だまってひざまづき、主の愛にすべてを委ねました。「これは私の愛する子、彼に聞け。」(マルコ9の7)「父と子と聖霊との御名によって洗礼を受けなさい。」希望の旗印である十字架をみつめて信仰生活を始めました。深く大きな御父の愛の御手に、安心して自分を任せきって。
ある夏のこと、指導司祭の勧めで黙想会に与りました。そこで私たちの世話をして下さる一人の修道女の中に、神に捧げたものの尊い姿に触れ、それが私の心にやきつきました。それからは毎日「ささげるということ。」を考えつづけていました。毎朝のミサではブドウ酒の中の一滴の水として「おうけ下さい。」と祈りつつ自分を奉献しました。
日々の生活を通して主は語りかけて下さいました。夕暮れに白くやさしく、寒椿が一日の仕事が終わって身心共につかれた私をいたわるように慰めてくれます。寒い雪の朝、いてつく大地を突き破って、やわらかい小さな芽を出している草は生命の力強さを教えてくれました。強い北風に枝をゆさぶられるままに立っている大木。風に吹かれれば吹かれる程、強く深く大地に根をはっていくようです。それは神の御旨のままに生きていくものの強さと美しさでした。「全地は主の霊で満ちみてり。」どの木もどの草にも生命の霊が流れ、すべては一つにつながっています。神の創造の業の美しさにひたります。
日々小さな親切を心がけていても何かしつくせない、捧げ切れない思いのままに、いつしか「いったい私は何になりたいの。」と祈っていました。「修道院へ。」という心の奥底からの声は私を驚かせましたが、同時に今までにない平安が私を満たしました。「私のことばは空しくかえらない。」(イザヤ55の11)というみことばが私を励まし、すべてを神に任せて待つようになりました。今までしていた朝夕の犬の散歩はいつしか祈りの時間になっていました。すべてを忘れて走りながら、私の心は夢中で主に向かって走っていました。自分が神のものであることを祈りのうちに知った時、喜びが私を包み、神を愛するために自分を大切にする意味を知りました。そして心から聖母と共にマグニフィカトを歌いました。
しかし、修道院をほとんど知らず、忙しい毎日で修院を尋ねることも出来ない私にとって、この修道召命は時に不安、あせり、あきらめにも誘いました。そんな時いつも助けて下さったのは聖母でした。ロザリオを祈りながら信仰の奥義を少しずつ教え、心を静めてくれました。御父と人々に対する愛のため「私の意のままではなく、御旨のままに。」と祈るキリストの祈りが私の祈りにもなり、御旨を果すことだけが望みとなりました。
幾度の迷い、壁にぶつかりながら修道院の門をたたいた時、主がすべてをして下さったこと、日々のうちにそれとは知らず必要なものは精神的にも物質的にもすべて準備して下さったことを知りました。
「主は私のために御手の業を果される   主よ、あなたの愛は永遠。」(詩編138の8)
桝田絢子O.D.N.