私の善き導き手マリア

私とキリスト教との出会いの道、それは聖母マリアを通してキリスト・イエズスへと導かれていきました。

私がマリアという名を初めて知ったのは、幼稚園に通い始めるようになってからの事です。その頃、札幌に住んでいた私の家の近くに、と言っても1km位離れた所に、1つのカトリック幼稚園がありました。キリスト教とは無縁の両親は、カトリックの幼稚園ということを意識して私をそこへ入園させたのではありません。私の家から最も近い幼稚園であり、私の兄、そして近所の子供達もそこに通園していたという理由以外にはないのです。その藤幼稚園時代の思い出として、幾つかの印象深い事があります。その1つは、毎朝の讃美歌です。壁に掛けられた聖母マリアの御絵を見上げ、指差しながら「私は小さい子供・・・・・マリアさまマリアさま私たちをあなたのよい子にしてください」と歌っていました。(後でわかった事ですが、本当は「イエスさまイエスさま」の部分をその幼稚園では「マリアさまマリアさま」に置き換えていたのです)それから、クリスマスの季節が近づくとホールには大きなクリスマスツリーが飾られます。そして、ある日ホールで、目をつぶり静かに座っている園児の所へ、幼きイエズスさまを腕に抱かれたマリアさまがいらっしゃった事です。幼きイエズスさまは人形であり、聖母マリアさまには隣接の短大生が扮していたようです。マリアさまの後からついて来て、良い子の私達のひざの上にお菓子の袋を配って下さるのは誰かしらと知りたくて、私は時折、片目を開けてみたものです。

卒園後、私は小学校から高校まで公立学校へ通いましたが、最初に覚えたあのマリアさまの歌を忘れる事はありませんでした。小学生になると時々、幼稚園では同窓会が開かれ、シスターが大きな聖画を前にして聖書のお話をして下さいました。

中学生時代のある年、クラスメイトの一人から「一緒に教会へ行かない?」と誘われました。それはルーテル教会でした。しかし、「プロテスタントはマリアさまを尊敬しないから私は行かない。」と言って彼女からの誘いを断りました。

高校時代になりますと、やはりクラスメイトの中にカトリック信者がいる事を他の人との話しから知りました。このようにして、私はキリスト教のことを、マリアの名を忘れる事なく思い出す機会を与えられていたのです。

高校卒業後、私は社会人になり、聖書を読みたいと思いました。そして、カトリック信者であった叔母の紹介で四ツ谷のエンデルレ書店で聖書を買い求めた後、隣接の聖イグナチオ教会の門を何の抵抗もなくくぐったのです。ベチコフェル神父様から公教要理を学び、当然の成り行きとして洗礼を受けました。私をイエズスへ、そして父なる神へと導いて下さった方は、幼稚園時代から私の心の中にいて見守っていて下さった聖母マリアであることを固く信じています。そこで私は洗礼名と堅信名には喜んでマリアの名をいただきました。受洗後、私は毎朝、聖イグナチオ教会のミサにあずかってから出勤し、往復の電車の中では10本の指をつかってロザリオの祈りをしました。

修道生活への召命を感じ始めた或る日、私はマリアさまの御像の前で私誓願を立てました。そしてその数年後、私は、聖マリア修道女会に入会し現在に至っています。それは、私が召命の恵みを考えながら、聖マリア会の蓼科での黙想会に参加した時、あるシスターの祈りの姿に、あるいは黙想者に接して下さる姿に私は暖かい心の聖母マリアの姿を見ました。それまでは、私の洗礼名である小さきテレジアのいたカルメル会、あるいは、これからの時代の福音宣教の為に大いに活躍するであろう女子パウロ会にも心が惹かれた時もありました。しかし、幼児教育の中でマリアと出会い、聖イグナチオの霊性の中で育てられ召命をいただいた私には、マリアの名をいただいている聖マリア修道女会を通して奉献生活を送ることが最もふさわしい道であると思いました。

会憲には、私たち聖マリア会員のアイデンティティとしてマリアの生き方を自分のものとする旨、記されています。「マリアに倣い、マリアのように生きる」と口で言う事は易しいです。しかし、日々の生活の中での実践となるとなかなか難しい事です。弱い私は、時折、挫折しそうになります。そのような時、私はルカ福音書の一場面を思い出し祈ります。それは、マリアへのお告げの場面です。「恵まれた者、喜びなさい。主はあなたと共におられます。」(1:28) 「恐れてはなりません。あなたは神から恵みをいただいているのです。」(1:30) これらのマリアへの御言葉は私にも神が語って下さり、この言葉に信頼し、励まされながら毎日を過ごしています。修道生活を通してマリアのように生きようと努めるならば、今までのように必ず聖母マリアは私を励まし、イエズス、御父への導いて下さることでしょう。

小林一惠odn.