聖マリア修道女会の歴史の起源は17世紀の初めにあります。1600年から1650年の世紀の移り変わりは、聖マリア修道女会の創立と、創立者ジャンヌ・ドゥ・レストナックの死と一致しています。この時代に起こった厳しい社会的危機は、歴史的方向転換をもたらし、人々に新しいタイプの人間概念という重要な影響をもたらしました。
1607年、教皇パウロ5世によって認可された聖マリア会は、教会によって認可された最初の女子教育修道会で、伝統的な女子修道会とは違った固有の特徴と特色を持った根本的に新しいものとして誕生しました。それと同時に、修道生活の新しい形の道が開かれ、イグナチオの霊性による一連の女子修道会の始まりとなるものでした。
創立者は当初、人々の批判に苦しみましたが、女性の幅広い統合的養成をめざす彼女の教育の理念が、ボルドーの人々や市議会によって、「人々のために益となる」と考えられ、学校が少女たちでいっぱいになるという成果をもたらしました。若い人たちの教育は、常に「より効果的になされるように」という彼女の主張は、質的にも量的にも学校の成長を導いたのでした。1640年、ジャンヌ・ドゥ・レストナックが帰天した時、聖マリア修道女会はフランスに30の修道院を数えるまでになっていました。その10年後、バルセロナにスペイン最初の修道院を創立しました。
18世紀、会はスペインとラテンアメリカに広がり、非常に豊かになりました。しかし、フランスでは、革命によって、50全ての修道院が消滅し、何人かの死者も含めて、修道者の離散の苦しみを経験しました。また、19世紀から20世紀半ばまで続いた教会財産の永久保有権の剥奪や不利な手段による一連の圧迫は、他の国々の聖マリア修道女会の教育事業にも直接影響が及びました。亡命した修道者によってベルギー、オランダ、メキシコや、USA(カリフォルニア)で実現された新しい創立は、苦しい不利な状況下での積極的な実りでした。
聖マリア修道女会の全修道院の決定的な一致の数年後、第2バチカン公会議によってもたらされた刷新により、会、教育者として福音宣教のミッションが違った立場からできることを理解しました:学校、大学、社会教育センター、健康教育分野、教会で、もっとも弱い立場の人々:移住者、国を追われた人々…命、尊厳、人権を守るために働く組織の中で、多様性における唯一のミッションは、正義の実を運んでいく信仰の奉仕をする教育者として、福音宣教することです。それは、若い人々、女性、家庭を優先分野としています。
現在、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカそしてアジアの4大陸26の国で、1400人余の聖マリア修道女会修道者、私たちのミッションに関わる大勢の信徒と共に、歴史は続いています。